死は自己超克の完遂である


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001 2020/01/08(水) 22:03:18 ID:i7mDfT6m5A
受身も取れないほど高い所から飛び降りるのでも、
難病を患うほど暴飲暴食などの不摂生を繰り返すのでも、
体細胞の限界を来たすほど長生きをするのでも、なんでも、
己れの限界を致命的に超えた瞬間に、人は死ぬ。

死とは、限りある命、制約の塊としての己れから解き放たれる機縁のことであり、
無限の可能性、絶対的な普遍性への永久なる没入であり、回帰の時である。

しかれば、生きてるうちにも飽くなき向上心を抱き続ける超人志向の人間にとっては、
自己超克の完遂の時である死ほど殊勝なことも他にないと言える。一方で、
学校の卒業なり資格の取得なり、就職なり結婚なり出産なり定年退職なりの、
なんらかの節目と共に己が成長を見限り、後は惰性の余生を貪ろうとするような
精神的後退者にとっては、死が不本意な自己超克を強いられる苦しみとなる。

だからこそ、人間いついかなる時も、死ぬまで向上心を捨てるべきではないとも言える。
それが、死を無明の闇として恐れ苦しまないでいられる、唯一の健全な手段なのだから。

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002 2020/01/08(水) 22:27:03 ID:lSGdU3Xd5w
などと意味不明な供述を繰り返しており警察では精神鑑定も含め動機の解明にあたる方針です

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003 2020/01/08(水) 22:43:58 ID:1GxvsujiZk
>>1
誰もレスがつかないようだから俺がしてやるよ








もちろんhageでなw

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004 2020/01/08(水) 22:44:09 ID:i7mDfT6m5A
俺の見立てでは、飽くなき向上心を抱きもせずに、
死への恐怖を完全に克服できているような人間は、この世に一人もいない。

世間体があるからあえて口には出さずとも、
みんな心中では、いつかやって来る自らの死に怯えすくんでいる。
だからこそ、気休めのための享楽を無闇にむさぼったりもするし、
年取ったら病院頼み、貯蓄頼みや国の借金頼みになってでも、
とりあえず長生きだけはしておこうとする。

団塊世代あたりの、精神の未熟な年寄りが情緒不安定化して、
コンビニで店員に当たり散らしていたりするのも、死が怖いからだ。

そんな年寄りたちの醜態を見た若者の中には、「長生きなんかしたくない」
「安楽死の合法化を」などと望む者も多いが、ろくに精神的な向上心もないようなら
結局は、今の年寄りたちと同じ轍を踏んで、将来似たような老害となることだろう。

向上心があるのなら、医療にも年金にも頼ることなく、死ぬまで働き続けられるぐらい
健康に長生きすることを目標としてもいいわけで、それだけの志しがない点では
今の若者も年寄りもなんら変わらない。健康寿命の尽きた「生ける屍」としての
老後しか想定できないのは、それだけ自分自身に向上心が欠けているから。

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005 2020/01/09(木) 00:21:31 ID:Hsu6VVUVU6
死が自己超克を完遂させる機縁だからこそ、
向上心を抱いて求道に取り組むことは、享楽に溺れることなどと違って、
死への恐怖を紛らわすための「気休め」ともならない。

寿命であれ戦死であれ病死であれ自殺であれ、
死の瞬間まで向上に取り組んでいた者にとっては、
生前も死後も方向性が全く同じだから、初志貫徹でどこにも悔いが残らない。
だから死を恐れずに済むというのは、気休めでもない正気の大悟である。

病死や自殺、特に自殺については、向上心と共にあることが
大変困難であるため、ほとんどの場合はそれが叶わない。

世のため人のための仁徳の志しを抱きながら、致命的な不手際を犯した時の
引責自殺などの場合には、むしろ生き延びたほうが志しを損ねることに
なりかねないことへの分別から、向上心によって自死できることもあろうが。
順当な引責であったとしても、仁徳が伴っていなければやはり不可能であろう。

人間誰しも、悔いの残るような死に方は避けたいものだが、
どんなに長生きできたところで残る時は残る。

「人生一度きりなんだから、やりたいことできるだけやろう」という、
近年の文芸や音楽にありがちな謳い文句の通りになんかしてたら、
十中八九悔いの残る死に方や、その前準備となる生き方しかできないだろう。
「やりたいこと」が求道であるような人間なんて、そうそうには居るまいし。

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006 2020/01/09(木) 01:27:11 ID:Hsu6VVUVU6
今の時代、生きてるうちから早々と死にたがる人間が多すぎる。

人生一度きりだから、大学在学中までの若いうちにできるだけやりたいことをやっておいて、
就職やら結婚やら子作りやらの「年貢の納め時」と共に己が成長を見限ってしまう、百姓精神。

「それでこそ一人前の大人」「いつまでも自己向上ばかりに固執するのは青二才の子供」
だとも考えていたり。向上心を棄てた人間のほうが不摂生で老け込むのも早いから、
その見た目からも自分たちのほうが先輩格であるなどと思い込みやすい。

しかし、実際にはそんな連中のほうが、自分でトイレにも行けないぐらいヨボヨボの
年寄りになってでも長生きしようとする。介護や医療で世の中に頼りきりな生ける屍に
率先してなろうとしている分だけ、飽くなき向上心の持ち主よりも半人前であることが間違いない。

死に際に悔いを残さないだけでなく、生きてるうちの老後における他人頼みの醜態を
避けるためにも、健康長寿への向上意識ぐらいは捨てるべきではない。
人間嫌でも老いるのだから、向上を続けるぐらいでやっと現状維持もまた務まるのだし。

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007 2020/01/09(木) 03:34:38 ID:Hsu6VVUVU6
自己向上のための求道手段を、西洋文化などに頼ったのでは、
底が浅すぎてすぐに飽きてしまうのも否めない。

欧米人は、キリスト教という他力本願の宗教を精神的な支柱にして来たものだから、
あらゆる文化文明を求道行為としては中途半端なものばかりに留め置いて来てもいる。

おまけに、頭を使うとなれば頭だけ、手先を使うとなれば手先だけ、体を使うとなれば体だけと、
心技体の部分々々を限定的に駆使する文化発展ばかりに終始して来たものだから、
頭を使えば文弱に、体を使えば体力馬鹿にといった「あっちを立てればこっちが立たず」
の事態を招くため、いつまでも人間性をプラスマイナスゼロ以上へと向上させることがない。

「小道といえども必ず観るべきもの有り。 遠きを致すにはおそらくは泥(なず)まん。
ここを以て君子は為(おさ)めざるなり」(子張第十九・四)

西洋文化はまさにこの「小道」にあたり、「観るべきもの」のきらびやかさ故に人気を博し、
今では東洋文化などよりもはるかに多くの人々に支持嗜好されてはいるが、その一切合切が
求道手段としては二足三文ほどの価値もない。ただやってて楽しいというまでの代物である。

「人生一度きりだからやりたいことやったもん勝ち」の「やりたいこと」にも
入りやすいだろうが、それ以上の価値があることまでをも期待すべきではない。
プロ級ともなればそれなりの努力をしていたりするのも確かだが、
金や名声のためにやってるんだから別に尊敬する必要もない。

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008 2020/01/09(木) 10:58:12 ID:Hsu6VVUVU6
他人に迷惑をかけることなく人生を全うすることを、
現代人は主に貯蓄に頼ろうとして来たが、それは間違いだった。

年取ってから老病で医者や介護頼みになるのを、
若い頃からの積み立てで埋め合わせるというマッチポンプ自体が
世の中に多大なる負担をかけ、少子高齢化や国の借金の増大によって
国を傾ける元凶にまでならざるを得なかった。

そこには、人としての最善がなかった。
長生き自体はめでたいことであるにしても、それを健康寿命が尽きながらの
社会福祉頼みで実現するような怠慢さでは禍福も反転し、若者にさっさと
死んでくれることを心中で乞い願われるような老害と化してしまう。

あくまで健康と共に長生きし、それが無理なら野たれ死ぬのでも構わないぐらいの
殊勝な心がけがある者にだけ、「福寿」というものもまた賜われるものだった。

人間、誰しもが世のため人のための仁徳盛業に励めるほどよく出来てはいないが、
常識があれば最低限、人に迷惑をかけることなく生きて行きたいぐらいには考えるもの。
しかしそれすらもが、健康長寿に義務意識を抱ける程度の向上心があるのでなければ務まる
ものではなかった。ここの所は、小市民を自認するような徒輩でろうとも反省すべき点である。

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