実用主義が最低劣の民度を招く
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新型コロナ問題からのデマ情報によるトイレットペーパーの買い占め騒ぎを見て、
ああ、昔「存在価値と利用価値は相反する」というスレを立てたことがあったな、と思い出した。
「国宝重文級の名画のキャンバスになるような高級用紙では尻を拭くこともできないし、
価値がありすぎて日焼け予防のためろくに飾っておくこともできなくなったりする。
それと比べれば、トイレットペーパーは目に見えてよく人の役に立ち、
糞尿をなすり付けられて便器に流され、下水道で揉まれ溶けゆく」
云々という内容だった。
トイレットペーパーこそは、あらゆる物品の中でも最も実用性が高い一方、
宝物的価値が最も低い(ように作られた)物品でもある。
人間、物欲まみれで高価な財宝などを好んで買い込む姿は、いかにも成金じみて悪趣味に
なりがちなものだから、貧乏の言い訳も兼ねて高級品を極力避けるぐらいのことは良くある。
しかし、だからといって物欲が全てなくなるわけではなく、トイレットペーパーのような実用品を
買い込もうとする意欲や、物を買う手立てとしての金を貯める意欲まではなかなか捨てようとはしない。
この、完全に物欲を捨てられているわけでも、物欲が洗練されているわけでもない状態、
「実用主義に駆られて未洗練な物欲を募らせている状態」こそは、最も人々の民度を低からしめる元凶となる。
だからこそ、トイレットペーパーがデマに踊らされた愚かな買い込み騒ぎの最たる標的ともなっている。
かような醜態を防いで行くための手段は二つ、本当に物欲を全体的に抑制させるか、もしくは
物欲をもっと洗練させるか。後者のほうがむしろ容易なのに、誤解されて敬遠されがちなことよ。
ああ、昔「存在価値と利用価値は相反する」というスレを立てたことがあったな、と思い出した。
「国宝重文級の名画のキャンバスになるような高級用紙では尻を拭くこともできないし、
価値がありすぎて日焼け予防のためろくに飾っておくこともできなくなったりする。
それと比べれば、トイレットペーパーは目に見えてよく人の役に立ち、
糞尿をなすり付けられて便器に流され、下水道で揉まれ溶けゆく」
云々という内容だった。
トイレットペーパーこそは、あらゆる物品の中でも最も実用性が高い一方、
宝物的価値が最も低い(ように作られた)物品でもある。
人間、物欲まみれで高価な財宝などを好んで買い込む姿は、いかにも成金じみて悪趣味に
なりがちなものだから、貧乏の言い訳も兼ねて高級品を極力避けるぐらいのことは良くある。
しかし、だからといって物欲が全てなくなるわけではなく、トイレットペーパーのような実用品を
買い込もうとする意欲や、物を買う手立てとしての金を貯める意欲まではなかなか捨てようとはしない。
この、完全に物欲を捨てられているわけでも、物欲が洗練されているわけでもない状態、
「実用主義に駆られて未洗練な物欲を募らせている状態」こそは、最も人々の民度を低からしめる元凶となる。
だからこそ、トイレットペーパーがデマに踊らされた愚かな買い込み騒ぎの最たる標的ともなっている。
かような醜態を防いで行くための手段は二つ、本当に物欲を全体的に抑制させるか、もしくは
物欲をもっと洗練させるか。後者のほうがむしろ容易なのに、誤解されて敬遠されがちなことよ。
素人が「お宝」「骨董」と聞けば真っ先に思い出すだろう、この番組。
財宝を「買う」ことに興味のない素人がこればかり観てたら、
かえって購買欲がより失せるのではないかと思う。
まだ専門家の鑑定がされてない物品を正式な鑑定に出してみる番組だから、
自然と「正規ルートで相応な値段で入手したお宝」はまったく出てこない。
素人がいわく付きで手に入れた謎物品が本当にお宝だったりゴミだったりして
一喜一憂する姿を見るのが面白くとも、そんな姿ばかりを見ていれば、
「危ない橋は渡るまい」として骨董趣味をより敬遠し始めることだろう。
かくしておそらく、この番組も視聴者の物欲の未洗練さに磨きをかけていることだろう。
視聴者の側は「物欲を捨てた聖人君子になれた」とでも思い込みながら。
そうしてトイレットペーパーの買い込みに走る気概をより高めている。
財宝を「買う」ことに興味のない素人がこればかり観てたら、
かえって購買欲がより失せるのではないかと思う。
まだ専門家の鑑定がされてない物品を正式な鑑定に出してみる番組だから、
自然と「正規ルートで相応な値段で入手したお宝」はまったく出てこない。
素人がいわく付きで手に入れた謎物品が本当にお宝だったりゴミだったりして
一喜一憂する姿を見るのが面白くとも、そんな姿ばかりを見ていれば、
「危ない橋は渡るまい」として骨董趣味をより敬遠し始めることだろう。
かくしておそらく、この番組も視聴者の物欲の未洗練さに磨きをかけていることだろう。
視聴者の側は「物欲を捨てた聖人君子になれた」とでも思い込みながら。
そうしてトイレットペーパーの買い込みに走る気概をより高めている。
俺も、未だに骨董全般への興味があるわけではないが、
名刀の価値を計り知ることが修養としての意義を帯びていると鑑みて、
できる範囲での勉強をしてみたわけだ。
そしたら、やっぱり名刀とクズ刀には明白な違いがある、
鍛えの良さや焼き入れの良さ、体配の手堅さや刃紋の美しさなど、
良し悪しで差別するほかないほど明確な品質の格差があり、
名刀には名刀なりの、クズ刀にはクズ刀なりの値段が付けられていると知った。
ただ、「未鑑定」の場合には名刀が二足三文で売られたり、
クズ刀に法外な値段をふっかけているバカがいたりもする。
こういうシチュエーションで刀を買う場合だけが博打同然になるのであり、
正式な鑑定を経た刀を買うことのほうが、素人についてはむしろ常道である。
現状でもっとも信頼の置ける鑑定機関は、公益法人の日刀保とされていて、
由緒が全く謎な無銘の刀や、戦後直後に刀剣保護目的で鑑定書を乱発した頃などを除けば、
概ねその鑑定は信頼に足るとされる。(なんでも鑑定団の刀剣鑑定士もここの会員)
さらに、日刀保で鑑定済みの刀を購入した客に対しては、
購入額の八割以上での売却を常時受け付けている店なども相当数ある。
つまり、万が一贋物であった場合にも、その損失は補填されることとなる。
刀剣以外の骨董でも、正規ルートの場合にはこういう保険が二重三重に張り巡らされている
場合が多いから、偽物をつかまされて大損するようなことはまずないのだが、
そんなルートが実在すること自体を、今の小市民の大半が知らないようである。
名刀の価値を計り知ることが修養としての意義を帯びていると鑑みて、
できる範囲での勉強をしてみたわけだ。
そしたら、やっぱり名刀とクズ刀には明白な違いがある、
鍛えの良さや焼き入れの良さ、体配の手堅さや刃紋の美しさなど、
良し悪しで差別するほかないほど明確な品質の格差があり、
名刀には名刀なりの、クズ刀にはクズ刀なりの値段が付けられていると知った。
ただ、「未鑑定」の場合には名刀が二足三文で売られたり、
クズ刀に法外な値段をふっかけているバカがいたりもする。
こういうシチュエーションで刀を買う場合だけが博打同然になるのであり、
正式な鑑定を経た刀を買うことのほうが、素人についてはむしろ常道である。
現状でもっとも信頼の置ける鑑定機関は、公益法人の日刀保とされていて、
由緒が全く謎な無銘の刀や、戦後直後に刀剣保護目的で鑑定書を乱発した頃などを除けば、
概ねその鑑定は信頼に足るとされる。(なんでも鑑定団の刀剣鑑定士もここの会員)
さらに、日刀保で鑑定済みの刀を購入した客に対しては、
購入額の八割以上での売却を常時受け付けている店なども相当数ある。
つまり、万が一贋物であった場合にも、その損失は補填されることとなる。
刀剣以外の骨董でも、正規ルートの場合にはこういう保険が二重三重に張り巡らされている
場合が多いから、偽物をつかまされて大損するようなことはまずないのだが、
そんなルートが実在すること自体を、今の小市民の大半が知らないようである。
正式な鑑定に基づいて「宝物」と呼べるような物品は、
たとえ高額で購入しようとも、汚損などさせずに売却すれば
ほぼ購入額と同じ値段で売れるし、時勢によってはより高額で売れる。
だからこそ宝物は宝物なのであり、家とか車とか船とかは、
どんなに高額であってもこの条件を満たしづらいから、
(未使用で汚損させぬまま取り置くことが難しいため)
宝物扱いまでされることは少ないのである。
トイレットペーパーなんて、買った分だけ金が消えて行くものだし、
大量生産大量消費の時代の工業製品なんてのは、
だいたいがこれと似たような方向性を帯びているものなのに、
それでも現代の大衆は消耗品の購入消費ばかりを好き好んで行う。
それがただ身の程を知っているからなだけならいいんだが、
実際には、自分が最低劣な物欲の持ち主であることもわきまえずに、
骨董好きを見下しながらの嗜好だったりするものだから、狂態なのである。
たとえ高額で購入しようとも、汚損などさせずに売却すれば
ほぼ購入額と同じ値段で売れるし、時勢によってはより高額で売れる。
だからこそ宝物は宝物なのであり、家とか車とか船とかは、
どんなに高額であってもこの条件を満たしづらいから、
(未使用で汚損させぬまま取り置くことが難しいため)
宝物扱いまでされることは少ないのである。
トイレットペーパーなんて、買った分だけ金が消えて行くものだし、
大量生産大量消費の時代の工業製品なんてのは、
だいたいがこれと似たような方向性を帯びているものなのに、
それでも現代の大衆は消耗品の購入消費ばかりを好き好んで行う。
それがただ身の程を知っているからなだけならいいんだが、
実際には、自分が最低劣な物欲の持ち主であることもわきまえずに、
骨董好きを見下しながらの嗜好だったりするものだから、狂態なのである。
未熟な物欲に囚われた最低劣の小人からの脱却のために、
宝物への見識を高めて物欲を洗練させて行くという方法も適当となるが、
これとはまた別に、物欲全体を控えて行くという手段もまたもちろんある。
妻すらもあえて醜女を娶り、死後の身辺にはろくな財産もなかったという諸葛孔明や、
「老身に財宝所領もちゆる心なし(独行道)」という自著の通りの生き方を貫いた宮本武蔵の如き生き方。
できるもんならやればいいが、現実には最も困難な道のりとなる。
孔明のように一生涯を仁義忠孝のための盛業に費やすか、あるいは
武蔵のように自らが剣技や書画工芸などの能力で重宝級の価値を持つ「生ける芸術」となるか。
ろくな能力もなく、ろくな仕事をやってるわけでもないのに、物欲までない。
そんな人間になるのはある意味、孔明や武蔵になるよりも難しいことであり、
これまた寺での厳しい修行などを介するのでなければ到底、務まることではない。
宝物への見識を高めて物欲を洗練させて行くという方法も適当となるが、
これとはまた別に、物欲全体を控えて行くという手段もまたもちろんある。
妻すらもあえて醜女を娶り、死後の身辺にはろくな財産もなかったという諸葛孔明や、
「老身に財宝所領もちゆる心なし(独行道)」という自著の通りの生き方を貫いた宮本武蔵の如き生き方。
できるもんならやればいいが、現実には最も困難な道のりとなる。
孔明のように一生涯を仁義忠孝のための盛業に費やすか、あるいは
武蔵のように自らが剣技や書画工芸などの能力で重宝級の価値を持つ「生ける芸術」となるか。
ろくな能力もなく、ろくな仕事をやってるわけでもないのに、物欲までない。
そんな人間になるのはある意味、孔明や武蔵になるよりも難しいことであり、
これまた寺での厳しい修行などを介するのでなければ到底、務まることではない。
ろくな身分でも能力者でもないような人間が、
さも物欲まで分相応に控えた聖人君子であるかのような振る舞いを
表向き心がけることで見栄を張る、ということはよくある。
その時に特に目の敵にされるのが、宝物や高級品であり、
トイレットペーパーに準ずるような日用品はこの限りではないし、
あえて見せなければ誰が知るわけでもない預金なども除外される。
ある程度まではそういったミニマリスト的な生活態度を見せかけられもするが、
年取って体力が衰えて掃除整理がやりづらくなり、何もない部屋の隙間風が
寒くて仕方ないようになれば、かなりの確率でゴミ屋敷を形成し始める。
近所から苦情が来るほど大規模化するのは少数であっても、
自分の部屋や机上が使いもしない消耗品やゴミで溢れ返り始めるぐらいのことは、
市井がモノで溢れ返っている上に高度医療が発達した現代社会の老人なら、
大多数が大なり小なり似たような経験をすることになる。
これも、ただ物欲がないかのように見せかけていただけで、
現実にはゴミでもいいからモノを貪るような、最低劣の物欲の塊だったからである。
「生きて行く上での最低限のモノがあればいい」なんていう美辞麗句を掲げながら、
実際には内なる所有衝動をハムスターのように募らせ続けている。
だから、本当に物欲全般を捨て去ることは極めて難しいことだと言ってるのである。
さも物欲まで分相応に控えた聖人君子であるかのような振る舞いを
表向き心がけることで見栄を張る、ということはよくある。
その時に特に目の敵にされるのが、宝物や高級品であり、
トイレットペーパーに準ずるような日用品はこの限りではないし、
あえて見せなければ誰が知るわけでもない預金なども除外される。
ある程度まではそういったミニマリスト的な生活態度を見せかけられもするが、
年取って体力が衰えて掃除整理がやりづらくなり、何もない部屋の隙間風が
寒くて仕方ないようになれば、かなりの確率でゴミ屋敷を形成し始める。
近所から苦情が来るほど大規模化するのは少数であっても、
自分の部屋や机上が使いもしない消耗品やゴミで溢れ返り始めるぐらいのことは、
市井がモノで溢れ返っている上に高度医療が発達した現代社会の老人なら、
大多数が大なり小なり似たような経験をすることになる。
これも、ただ物欲がないかのように見せかけていただけで、
現実にはゴミでもいいからモノを貪るような、最低劣の物欲の塊だったからである。
「生きて行く上での最低限のモノがあればいい」なんていう美辞麗句を掲げながら、
実際には内なる所有衝動をハムスターのように募らせ続けている。
だから、本当に物欲全般を捨て去ることは極めて難しいことだと言ってるのである。
特に、近ごろの団塊〜バブル世代あたりの年寄りは、
若者以上に西洋かぶれや近代文明かぶれが多いものだから、
(団塊は野球好き、バブルはサッカー好き、新人類は文系の西洋文化好き
が多いなど、それぞれに多少の個体差もあるようではあるが)
たとえ金があって物欲を開き直っている場合にも、
宝物や骨董を嗜好することが少ないようである。
金を使うなら、高級車なり大型テレビなりゴルフクラブなりハワイ旅行なりと、
一概に遊興の材料となるような消耗性の商品ばかりに費やそうとする。
要するに遊興主義であり、遊興のために実用主義もまたより増強されている。
本人たちはそれで満足であっても、傍観者の若者などからはちっとも魅力的に映らない。
ハクイスケを高級車の助手席に侍らせてドライブなんてことの楽しさが
全く分からないわけではなくとも、そのために職場で団塊に怒鳴りつけられ
バブルにいびられて、それでも媚びへつらって取り入れられるような
恥辱を受け入れてまで自分も手に入れたいものだなどとは、到底思われない。
刀剣だって元来は実用品だが、その実用手段である「実戦」が法律で禁じられている上に、
許された所でろくにやりたくもないような禍事だから、実用第一なら敬遠したくなるもの。
それでもその宝物としての存在価値を計り知り、実戦剣術をも武芸として修めるのであれば、
そんな年寄りこそは若者からも羨望や畏敬をされるに値する。
今の年寄りはさような選択肢をあえてこばみ、自分本位な遊興や、
そのための実用品の消費ばかりに執心して来ているのだから、
若者に侮り蔑まれるとしても自業自得という他ない。
実用主義の低劣さは、長幼の序を害わしめるのにも十分に値するものである。
若者以上に西洋かぶれや近代文明かぶれが多いものだから、
(団塊は野球好き、バブルはサッカー好き、新人類は文系の西洋文化好き
が多いなど、それぞれに多少の個体差もあるようではあるが)
たとえ金があって物欲を開き直っている場合にも、
宝物や骨董を嗜好することが少ないようである。
金を使うなら、高級車なり大型テレビなりゴルフクラブなりハワイ旅行なりと、
一概に遊興の材料となるような消耗性の商品ばかりに費やそうとする。
要するに遊興主義であり、遊興のために実用主義もまたより増強されている。
本人たちはそれで満足であっても、傍観者の若者などからはちっとも魅力的に映らない。
ハクイスケを高級車の助手席に侍らせてドライブなんてことの楽しさが
全く分からないわけではなくとも、そのために職場で団塊に怒鳴りつけられ
バブルにいびられて、それでも媚びへつらって取り入れられるような
恥辱を受け入れてまで自分も手に入れたいものだなどとは、到底思われない。
刀剣だって元来は実用品だが、その実用手段である「実戦」が法律で禁じられている上に、
許された所でろくにやりたくもないような禍事だから、実用第一なら敬遠したくなるもの。
それでもその宝物としての存在価値を計り知り、実戦剣術をも武芸として修めるのであれば、
そんな年寄りこそは若者からも羨望や畏敬をされるに値する。
今の年寄りはさような選択肢をあえてこばみ、自分本位な遊興や、
そのための実用品の消費ばかりに執心して来ているのだから、
若者に侮り蔑まれるとしても自業自得という他ない。
実用主義の低劣さは、長幼の序を害わしめるのにも十分に値するものである。
今の若者も別に、禁欲主義だったり洗練された物欲の持ち主だったりするのではない。
まだ若くて生きてるだけでも楽しい+スマホでSNSやソシャゲという組み合わせが
それなりの満足をもたらすものだから今のうちは大丈夫というだけで、
年取って幸福感が薄れてくると必ずや、破綻を来たすに違いない。
(近年、アラフォー氷河期世代の暴発事件などがあるのもそのため)
調子に乗ってこんな殺風景をやせ我慢してたような奴ほど、加齢と共に
人並み以上にひどいゴミ屋敷を作り始めるなんてこともあり得る。
そうならないように、なおかつ今の年寄りみたいな醜い物欲まみれに陥らないためには、
昔の出家者なみに徹底的かつ体系的な禁欲志向を育んで行くか、もしくは
物の良し悪しを見分ける見識を身に付けて、本当に価値のあるものだけを所有するようにするか。
この部屋に、本当に一切価値のあるものなど置いてなくて、
最低限の日用品のみあるというのなら、そのほうが晩年にはゴミ屋敷まっしぐらだろうが、
日刀保で特別保存刀剣以上の鑑定が付く刀(素性不明の無銘刀や偽銘刀は含まれない)が一振りでもあれば、
それだけで死の間際に至るまでこれだけの整頓加減を保ち続けることも可能だろう。
そんな心がけのある若者がいるわけでもないし、仏門の腐敗のせいで体系的な禁欲修行の道も閉ざされている。
年寄りか若者かなどに関わらず、万人が未熟な物欲の呪いにかけられているのが日本の現状である。
まだ若くて生きてるだけでも楽しい+スマホでSNSやソシャゲという組み合わせが
それなりの満足をもたらすものだから今のうちは大丈夫というだけで、
年取って幸福感が薄れてくると必ずや、破綻を来たすに違いない。
(近年、アラフォー氷河期世代の暴発事件などがあるのもそのため)
調子に乗ってこんな殺風景をやせ我慢してたような奴ほど、加齢と共に
人並み以上にひどいゴミ屋敷を作り始めるなんてこともあり得る。
そうならないように、なおかつ今の年寄りみたいな醜い物欲まみれに陥らないためには、
昔の出家者なみに徹底的かつ体系的な禁欲志向を育んで行くか、もしくは
物の良し悪しを見分ける見識を身に付けて、本当に価値のあるものだけを所有するようにするか。
この部屋に、本当に一切価値のあるものなど置いてなくて、
最低限の日用品のみあるというのなら、そのほうが晩年にはゴミ屋敷まっしぐらだろうが、
日刀保で特別保存刀剣以上の鑑定が付く刀(素性不明の無銘刀や偽銘刀は含まれない)が一振りでもあれば、
それだけで死の間際に至るまでこれだけの整頓加減を保ち続けることも可能だろう。
そんな心がけのある若者がいるわけでもないし、仏門の腐敗のせいで体系的な禁欲修行の道も閉ざされている。
年寄りか若者かなどに関わらず、万人が未熟な物欲の呪いにかけられているのが日本の現状である。
ただ、今の日本人といえども、取り立てて民度が低いと言われているような
諸外国の人間と比べれば、まだ未熟な物欲を恥じる心持ちが残存しているようではある。
去年起きたこの京成線の衝突脱線事故などでも、散乱した果物をくすねるような日本人は一人もいなかった。
同様の事件が中国などで起きれば、野次馬がここぞとばかりに群がって散乱物を収奪して行くし、
アフリカでは、事故を起こしたタンクローリーから漏れ出したガソリンを収奪しようとした
近隣住民が、爆発に巻き込まれて60人以上が死亡するなんていう事件も去年あった。
それと比べれば、占有離脱物横領を控える程度には日本人も全体的に物欲を控えられているといえ、
民度の高さがうかがえる実例だともされているが。どうして日本人がそのようでいられるかといえば、
元来、日本には物欲を洗練によって制御させて行く、豊かな格物致知の文化があったからである。
諸外国の人間と比べれば、まだ未熟な物欲を恥じる心持ちが残存しているようではある。
去年起きたこの京成線の衝突脱線事故などでも、散乱した果物をくすねるような日本人は一人もいなかった。
同様の事件が中国などで起きれば、野次馬がここぞとばかりに群がって散乱物を収奪して行くし、
アフリカでは、事故を起こしたタンクローリーから漏れ出したガソリンを収奪しようとした
近隣住民が、爆発に巻き込まれて60人以上が死亡するなんていう事件も去年あった。
それと比べれば、占有離脱物横領を控える程度には日本人も全体的に物欲を控えられているといえ、
民度の高さがうかがえる実例だともされているが。どうして日本人がそのようでいられるかといえば、
元来、日本には物欲を洗練によって制御させて行く、豊かな格物致知の文化があったからである。
刀剣に限らず、あらゆる工芸品を精魂込めて作り上げて行く職人文化。
日本以外にも上等な工芸品を作り込んでいる国はいくらでもあるが、
量産品に至るまで高い水準を保つことにかけては日本こそが今も昔も随一である。
その工芸水準の高さが、戦後には工業生産の分野にも応用されて、
「MADE IN JAPAN」といえば高品質で低価格の代名詞ともなった。
安価な量産品でも作る以上は手を抜かないか、もしくは手の抜き方を
よく考えて、実用上の問題を来たすことが決してないようにする。
トイレットペーパーがミシン目に沿ってまっすぐに切れたり、
レジ袋が絶対底が抜けたりしないように作られていたりするのもその一例で、そこまで
物作りへのこだわりを欠かさないことが、引いては物欲の制御にも一役買い続けているといえる。
しかし、工業生産というのは所詮、物品の宝物的価値を否定した所で
成り立っているものに過ぎないから、そればかりに終始していれば
どうしたって物欲の洗練度が目減りして行くことになる。
便利機能を盛りだくさんにしたせいで、かえって使いにくくなってしまった
日本メーカーの家電などよりも、最低限の機能に特化した代わりにより安くした
中韓メーカーの家電のほうが世界的なシェアを奪取してしまっているのも、
そもそも工業製品というものがその程度で十分なものだからこそ。
物欲洗練の材料にするのならば、最低でも工芸品以上ではあるべきである。
工業製品がどんなに高価でも、それなりの物量投入(生産ラインを含む)があるからだし、
寸分違わず同一の製品を量産しているものだから、所有に欠けての満足度も必ず低い。
小さな皿や湯呑み程度であっても、精魂込めて職人が作ったワンオフ品であれば、
豪華客船やジェットなみの工業製品にも勝る宝物的価値を帯びるものである。
そこにこそ楽しみを見出せるか否かが、本人の品性を段違いに様変わりさせることとなる。
ふぅ
日本以外にも上等な工芸品を作り込んでいる国はいくらでもあるが、
量産品に至るまで高い水準を保つことにかけては日本こそが今も昔も随一である。
その工芸水準の高さが、戦後には工業生産の分野にも応用されて、
「MADE IN JAPAN」といえば高品質で低価格の代名詞ともなった。
安価な量産品でも作る以上は手を抜かないか、もしくは手の抜き方を
よく考えて、実用上の問題を来たすことが決してないようにする。
トイレットペーパーがミシン目に沿ってまっすぐに切れたり、
レジ袋が絶対底が抜けたりしないように作られていたりするのもその一例で、そこまで
物作りへのこだわりを欠かさないことが、引いては物欲の制御にも一役買い続けているといえる。
しかし、工業生産というのは所詮、物品の宝物的価値を否定した所で
成り立っているものに過ぎないから、そればかりに終始していれば
どうしたって物欲の洗練度が目減りして行くことになる。
便利機能を盛りだくさんにしたせいで、かえって使いにくくなってしまった
日本メーカーの家電などよりも、最低限の機能に特化した代わりにより安くした
中韓メーカーの家電のほうが世界的なシェアを奪取してしまっているのも、
そもそも工業製品というものがその程度で十分なものだからこそ。
物欲洗練の材料にするのならば、最低でも工芸品以上ではあるべきである。
工業製品がどんなに高価でも、それなりの物量投入(生産ラインを含む)があるからだし、
寸分違わず同一の製品を量産しているものだから、所有に欠けての満足度も必ず低い。
小さな皿や湯呑み程度であっても、精魂込めて職人が作ったワンオフ品であれば、
豪華客船やジェットなみの工業製品にも勝る宝物的価値を帯びるものである。
そこにこそ楽しみを見出せるか否かが、本人の品性を段違いに様変わりさせることとなる。
ふぅ
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