ここはひとつ、日本のジャーナリストの存在意義から考えるべきだと思うな。
俺は後藤氏以前から疑問に感じるんだが、「日本」の「ジャーナリスト」が「中東」の「取材」をする事がそんなに大切か?
様々なテレビ番組で有識者たちは言っていた。「ジャーナリストが現地に赴く事で日本が中東の事情を把握出来る」と。
確かにそうだ、だが、「ジャーナリスト」と「日本のジャーナリスト」は同じではない。
そもそも、日本人ジャーナリストは近場で支援してくれる拠点が無い。ツテも少ない。
言語能力も風習に対する知識も(もちろん一般的な日本人とは比べるべくもないが)十全ではないだろう。
そんな不十分な人員が危険な場所へ飛び込み、結果、政府に対する身代金交渉の具にされる。
これはリターンに対してリスクが大きすぎる。
「では中東の事など放っておけと言うのか」「原油価格などに関わってくる重要な情報を入手できなくなる」「非人道的行為の実態がつかめなくなる」と反論があるかもしれない。
だが、それは「日本のジャーナリスト」からでなくても入手できるはずだ。
諸外国(中東を中心とする近隣諸国)のジャーナリストから買えば良い。活動を支援しても良い。非現実的な身代金を要求されるよりはよほど安く済むだろう。
「外国人を危険にさらして日本は金を出すだけか」と反論されるかもしれない。
だが、「日本人ジャーナリスト」という「代理」を危険地帯に行くに任せてその情報を重要視している現状も同じようなものだろう。
身を切れ、実体験しろというなら、日本人ジャーナリストと言う人種に過大な負担をかけている今も同じだ。
どうしても、「ジャーナリスト」は必要だろう。それは認める。
だが、「日本人ジャーナリスト」である必要性がそれほど高いだろうか?
日本人ジャーナリストは、日本を中心としたアジア圏で活躍すれば良いのではないだろうか?
中東に行く日本人ジャーナリストにとって、日本・アジア圏ではもはや取材すべきことは無いのだろうか?
はなはだ疑問である。
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